少林寺拳法の創始
 四国の高松から西へ36キロ、人口2万余りの町、香川県多度津町。
 昭和22年(1947年)10月25日、終戦後、中国から引き揚げてきた開祖 宗道臣が、この町で少林寺拳法を創始しました。
 宗道臣がなぜ少林寺拳法を創始したか?

「人、人、人、すべては人の質にある」
 昭和22年(1945年)8月9日、宗道臣は東満州(現在、中国東北地方)の国境の町綏陽(すいよう)で、ソ連の一方的な攻撃に遭い、それからの1年間をソ連共産軍の軍政下にあった満州で生活することになりました。そしてこのとき、宗道臣は敵地における敗戦国民の惨めさと悲哀を十二分に体験しました。
 それは、イデオロギーや宗教や道徳よりも、国民や民族の利害の方が優先し、力だけが正義であるかのような国際政治の厳しい現実でした。この厳しい現実に身を浸した経験の中で、宗道臣は貴重な発見をしました。

 それは、法律も政治のあり方も、イデオロギーや宗教の違いや国の方針だけで決まるものではなく、その立場に立つ人の人格や考え方によって大きな差が出るということです。そして宗道臣は、
「人、人、人、すべては人の質にある」
 と悟ったのです。
 すべてのことが人によって行われるとするなら、真の平和の達成は、慈悲心と勇気と正義感の強い人間を一人でも多くつくる以外にないと気づいたのです。
 そこで宗道臣は、
 「万一生きて日本に帰ることができたら、私学校を開いて、志のある青年を集め、祖国復興に役立つ人間を育成しよう」
と決心しました。

敗戦の日本で
こうして宗道臣は、残留をすすめてくれる中国人有志の好意を振り切って、懐かしい祖国に帰ってきました。
 いざ帰国してみると、日本は敗戦直後の混乱期。道義も人情もすたれ、日本人同志がお互いにいがみあって自分だけの幸せを願い、他人の不幸を見て見ぬふりをすることに慣らされ、不正と暴力が白昼横行し、道義も秩序もない弱肉強食の修羅場になっていました。
青少年の多くは、将来に対する夢と希望を失い、目前の享楽の我を忘れたり、過激な外国思想を受け入れてその虜になり、祖国を見失って日本人であることさえ忘れかけているといったありさまでした。
 これは、宗道臣が外地でつぶさに見てきた一部の亡国民族に共通する姿にほかなりません。このままでは過去に輝かしい伝統をもつ日本民俗もやがて骨抜きにされてしまい、奴隷民族になりかねない状態だったのです。
 そこで宗道臣は、
 「これではいけない、これからの半生を気骨のある青年の育成に捧げよう」
と決心し、四国の多度津に道場を開き、道を説きはじめました。

                            「少林寺拳法 副読本 第一章 少林寺開創の動機と目的」より