「残心について」「当身の五要素」などという技術的なこともあれば、「金剛禅について」「仏心一如」「不立文字」など、教義についてのものも多く、最後は決まって国を憂い、日本人はどうあるべきかといった話で結ばれた。
そんな新鮮な日々も長くは続かなかった。入門後三か月もたたない昭和27年1月、伊丹の部隊への転勤命令がだされた。
当時、善通寺部隊からの入門者はあとを絶たぬほどの盛況で、この人たちの「転勤」は結果的に全国各地に金剛禅の種子を芽生えるという効果をもたらした。梶原拳士の場合もその一例である。
「頑張れよ」と師範からは初段を許されて本部をあとにするが、“好きな少林寺拳法を続ける”ことがその後の人生設計の中心に置かれる。就職先を変えることなく「拳法ができる」ことが条件であった。実は、尼崎道院開設もやむにやまれぬ事情からであった。
伊丹の部隊を退職した梶原拳士はさっそく本山に帰り、再修行に取り組む。昭和31年3月のことであった。上中上の段蹴りにしろ、前身一足を一突き、一蹴りと数えての千本突き、千本蹴りも日課の一つであった。足腰の鍛練を中心にすえたもので、いつしか慣れてきた。
師範からの手ほどきも数えるほどしかなく、「技」は自得、つまり人は誰でも自省自修の工夫が大切で、自分で修行するほか方法がないとこを思い知らされる毎日であった。
道場を離れての師範は特にやさしかった。町内にある寺に間借していた彼にも時たま声がかかり、差し向いでモツ鍋をつつくこともあった。師範は、はしで鍋の中を器用に回し、「お前からよく見えるところは、よく煮込んであるからうまいぞ」
この先達としてというより親にも勝る心づかいには、師の心の深さと温かさがにじみでており、どんな教えよりも尊く感じた。
後年20名に余る道院長・支部長を輩出する「尼崎道院」も、決して平坦な道のりではなかった。
昭和35年、大学にも支部が設立され、本山合宿も始まる。それから毎年のように春と夏、30日、40日と帰山し、その指導を手伝った。できるとき、できる形での奉仕を心がけたのである。
昭和36年、梶原菊夫拳士は、それまでの武芸の門人としての認識を改め、門信徒として再出発することを心に誓った。名も開祖から頂いた「道全」と改めた。
「ダーマによって生かされているという喜び」を見出すという教えと修行に、ほんとうに取り組んでみようと思ったのである。「ダーマ」を宇宙の実相であり大光明であるとし、その分霊をもつ自己の存在を説いてくれた師。表現こそ違え、自分が聞いた親鸞や空海の教えに少しも遜色はない。『教範』に出てくる「自彊不息」(易経)ということばも気になり調べてみた。自ら強(彊)めて息まぬこととある。自然と人間を一体と捉え、自ら動きだす、そういう力を人間は本来持っているというのである(象白天行健君子以自彊不息)。
技の壁にも何度か会った。そのたびに超えてきた。その中に思いがけない自分自身の発見もあった。感動もあった。人と比べるものではない。
自分自身の内面から湧き上がる喜びである。しかし、その一を教えてくれたのは師であった。
「わが師は偉大だ」の思いとともに、金剛禅信仰は深まっていった。
「この十年、金剛禅がどこかへ行ってしまったのではないか。教義といっても試験のための学科になっており、行ずる者は少ない。開祖も運動体として同志の獲得をねらって、社団法人の組織もつくってみた。しかし『技』のおもしろさ故に技ばかりに目が行くこの現実。まさに本末転倒です」
「また、宗教法人の運営の基本は奉仕なのです。信者による奉仕で教団が成り立つ。それをつなぐものが信仰というものです。宗教心がなくなると金剛禅はつぶれます。そうしないためにはどうするか。それぞれが“ダーマの分霊”であることを信じることでしょう。そこに宗教性が成り立つ。宇宙の大生命であり無始無終の大光明である存在、それが何故信じられないのか。教えが宙に浮いている。教えがあって、信じる人が行じて、その功徳が現実に現れる。そう信じて形から入るのが先。信じて疑わないそんな人々によって、宗教教団も支えられておるんです。まず信仰が第一歩です。拳法をやっておったら金剛禅だという考え方でおるのと違うかな」
「原点に帰れ」とはよく開祖の言われたことばである。金剛禅運動の原点とは何か。それはダーマによって生かされているという喜びを、いかに表現するかということに尽きる。それを自分自身で模索し、そしてやること。他人の批判やただ考えることは簡単。実際に行動に移さなければ意味はない。その大本を示したのが「道訓」なのである。ことばはやさしいが実践することは難しい。まず人の道が天から生じていると考え、ひたすら努力すること。そして自ら進んで困難に身を呈し、苦しいことや恐ろしいことに体を張って生き抜く。そんな時、自分自身に言い聞かせ、誓わなければならないことに限りなどないはず。ここに金剛禅の正依の経典を「礼拝詞」と「道訓」とする所以があると言い切る。 |

本部にて練習中の梶原道全大範士
(初段の頃)

昭和27年5月7日 (初段の頃)
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